【予習シリーズ5年下 第1回】社会攻略ガイド

2026年7月26日

【予習シリーズ5年下 第1回】社会「旧石器時代・縄文時代・弥生時代」攻略ガイド【進塾】

【予習シリーズ5年下 第1回】社会攻略ガイド

〜旧石器時代・縄文時代・弥生時代〜遺跡と暮らしの変化から読み解く原始社会〜

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1. はじめに:この記事を読んで得られるメリットと実戦力

第1回の社会は、いよいよ歴史分野に入る最初の単元です。旧石器時代・縄文時代・弥生時代という原始社会を扱いますが、この3つの時代を通して一貫して重要なのは「遺跡」です。どの遺跡が、どの時代に対応し、そこから何がわかるのかを整理して覚えることが、この単元全体の骨格になります。

【本記事を読むメリット】
この記事を読み込んでいただくことで、旧石器時代・縄文時代・弥生時代のそれぞれを代表する遺跡(岩宿遺跡、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡など)を、暮らしの変化と結びつけて記憶する力が身につきます。また、稲作の広まりによってムラが生まれ、争いを経てクニへと発展し、最終的に邪馬台国という国家的なまとまりに至るという弥生時代の政治的な流れを、一本の線としてつなげて理解できるようになります。受験における優先順位としては弥生時代が最も高く、次いで縄文時代、旧石器時代の順になりますが、この記事ではその優先順位も踏まえながら、記述問題にも対応できる「なぜそうなるのか」という理由まで解説していきます。

2. 旧石器時代:日本列島が大陸と繋がっていた頃

旧石器時代と縄文時代は基本的には文化史が中心となる時代であるため、用語をしっかり押さえることが重要です。まず大前提として押さえておきたいのは、旧石器時代の日本は世界的に見ても気候が非常に寒く、北極の氷が多かったために海面が低く、日本列島が今のアジア大陸(中国や朝鮮半島)と地続きで繋がっていたということです。

マンモスは北から、ナウマンゾウは南から

💡 マンモスとナウマンゾウの覚え方

大陸と繋がっていたことで、当時の食料源であったマンモスやナウマンゾウが日本列島に渡ってきました。ここで頻出なのが「マンモスは北から来たか、南から来たか」という問題ですが、マンモスは北から、ナウマンゾウは南からやってきたと覚えておきましょう。覚え方としては、ナウマンゾウの「ナウ」を音読みすると「南(ナン)」に通じることから、「ナウマンゾウは南から」と結びつけて覚えると忘れにくくなります。

当時の人々は、このマンモスやナウマンゾウといった大型動物を追って日本列島にも移り住み、住み着いたと考えられています。もちろん、素手でこれらの大型動物と戦うことはできないため、武器として打製石器(旧石器)が使われていました。こうしたことがなぜわかるのかといえば、遺跡が発見されているからです。旧石器時代の代表的な遺跡としては、群馬県の岩宿遺跡と、長野県の野尻湖遺跡の2つを地図上の位置とあわせて押さえておきましょう。

3. 縄文時代:定住生活の始まりと身分差のない社会

縄文時代は、今から約1万2000年前から紀元前4〜3世紀ごろまで、約1万年間続いた時代です。旧石器時代は氷河時代でしたが、それが終わって気候が温暖になると、北極や南極の氷が解けて海面が上がり、今の日本列島の形が作られました。気候が温かくなったことで四季も誕生し、季節に応じた暮らしが始まります。

土器が生まれた理由と、大型動物の消滅

季節によって取れるものが変わる生活の中では、貯蔵や煮炊きが必要になります。そのために作られたのが土器であり、縄文時代に作られた土器なので「縄文土器」と呼ばれています。また、食べるものが変わったことで道具も変化し、石器も打製石器から、石を磨いた磨製石器へと進化していきました。
大型動物(マンモスやナウマンゾウ)は旧石器時代(氷河時代)には多くいましたが、縄文時代には姿を消しています。理由には諸説あり、単純に気候変化で夏の暑さが苦手だったという説や、地球の重力の変化を挙げる説などがありますが、いずれにしても大型動物が姿を消した代わりに、鹿やイノシシといったすばしっこい動物が現れるようになりました。これらの動物は素早く動くため、打製石器や磨製石器で追いかけて捕まえることは難しく、そこで登場したのが弓矢です。矢の先端は、黒曜石などを磨いた磨製石器で作られていました。

縦穴住居と定住生活、そして貝塚が語る暮らし

旧石器時代はマンモスを追いかける生活だったため洞窟を転々としていましたが、縄文時代になるとその必要がなくなり、1箇所に住み続ける定住生活が始まりました。この時に住んでいた家が縦穴住居です。

💡 貝塚は「ただのゴミ捨て場」ではない

縄文時代の暮らしを知る上で重要なのが貝塚です。貝塚とは、貝殻などを捨てたいわゆるゴミ捨て場のことですが、単なるゴミ捨て場ではないことがポイントです。貝塚からは犬の骨や人の骨も見つかっており、ゴミを捨てる時に「今までありがとう、お疲れ様でした」という気持ちを込めて捨てていたのではないかと考えられています。
受験でよく問われるのは、貝塚から何がわかるかという点です。貝塚は海岸沿いにできるゴミ捨て場であるため、貝塚の分布をたどっていくことで、当時の海岸線がどこにあったのかがわかるという結論になります。この貝塚の中で最も有名なのが、明治時代にアメリカ人のモースが発見した東京都大森海岸の「大森貝塚」です。

縄文時代のもう1つの特徴が「身分の差のない社会」であるという点です。取って食べるだけの生活だったため、身分の差が生まれる要素がなかったと考えられており、これは死者の葬り方に差がないことや、住居の作り・大きさに違いがないことから読み取ることができます。結構平和な時代だったと言えるでしょう。また、この時代にはすでに丸木船を使った活発な交易も行われていたことが発見されており、遠方との物のやりとりも行われていました。
自然に頼ることの多い生活の中で、祈りも重要な要素でした。女性をかたどった土の人形である「土偶」に祈りを込め、安産や豊かな収穫を願ったとされています。

4. 弥生時代:稲作が生んだ貧富の差と邪馬台国

弥生時代は紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀ごろまで、約700年間続いた時代です。「弥生」という名前は、東京都文京区弥生の地名に由来しています。この時代は少々ややこしいですが、まず大事な流れとして、稲作が伝わったこと自体は縄文時代の終わり頃ですが、それが本格的に広まったのが弥生時代である、という点を試験の引っかけとして意識しておく必要があります。

大陸から伝わった新しい文化と、稲作の広まり

縄文時代の終わり頃から、朝鮮半島や中国大陸から稲作と金属器(鉄器・青銅器)が伝わりました。土器の形も変化し、縄文土器に比べて紋様の少ない弥生土器が作られるようになります。稲作は九州北部から徐々に広まっていき、最終的には青森県まで伝わりましたが、北海道と沖縄には広まりませんでした。これは、これらの地域では米に頼る必要がそれほどなかったためです。稲作が広まるにつれて、人々の住む場所も、低地(湿地帯・水辺)に村を作るスタイルへと変化していきました。稲作の証拠となる代表的な遺跡が、静岡県の登呂遺跡です。

稲作の道具としては、まず田起こし(現代のトラクターにあたるもの、当時は鍬)を行い、代かきをした上で田植えをします(この時、足が沈まないように田下駄を履いていました)。収穫には石包丁を、脱穀には臼と杵を使っていました。収穫した米は保存が効くため、湿気を避けるために床を高くした「高床倉庫」で保存され、ねずみの侵入を防ぐための「ねずみ返し」という工夫も施されていました。

鉄器は実用品、青銅器はお祭りごとに

金属器については、鉄器と青銅器で用途が異なる点が重要です。鉄器は武器や農具といった実用的なものとして使われた一方、青銅器は比較的柔らかい性質を持つため、お祭りごとに使われました。青銅器の代表例が「銅鐸」です。

社会の変化:貧富の差の発生と、争いに備えた環濠集落

⚠️ 平和だった縄文時代から一変する社会

身分の差がなかった縄文時代とは対照的に、稲作が広まると米の蓄えの多い少ないによって貧富の差が生まれるようになります。また、稲作は共同作業であるため、必ず作業を仕切る指導者が現れるようになり、農作業の指示がうまい人や、占いがうまい人が頂点に立ち、それに従う人が出てくるという上下関係が生まれました。この社会の変化がわかるのは、縄文時代とは逆に、死者を葬る方法に差が出てきたためです。

稲作が始まると、村ごとに米作りがうまい村と下手な村が出てきます。米作りが下手な村がうまい村を襲うようになり、そこから争いが始まりました。そのため、村は敵の侵入に備えて周りに堀を巡らせる防衛施設(環濠集落)へと変化していきます。こうした環濠集落の中でも特に有名なのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。
村同士の争いが繰り返される中で、勝った村が負けた村を取り込んでいき、次第に村は「国」と呼べるほどの広い単位になっていきました。そして、その国のトップに立つ人物が「王」と呼ばれるようになります。この王が、後の時代の「豪族」にあたり、豪族の中でも最も偉い者が後に大王(おおきみ)と呼ばれるようになっていきます。

中国の歴史書からわかる、倭(日本)の姿

弥生時代の日本の様子は、中国の歴史書からも読み取ることができます。全文を暗記することは不可能なので、キーワードと年代を対応させて覚えることが大切です。

  • 紀元前1世紀頃:この頃、日本は「倭」と呼ばれており、100余りの国に分かれていました。
  • 1世紀半ば:日本の中の「奴国」の王のもとに中国から使いが来たため、そのお返しとして金印が授けられました。この金印は現在の福岡県志賀島で発見されており、「漢委奴国王」と刻まれています。この時の「委」の字には人偏がついていない点に注意しましょう。
  • 3世紀:邪馬台国という国があり、女王の卑弥呼が30あまりの国を従え、まじないによって支配していました。

中国から見れば当時の中国が世界の中心であったため、日本のことを見下すような記述がされているのも、当時の力関係を考えれば自然なことだと言えるでしょう。

5. まとめ・解説動画(タイムスタンプ付き)

第1回の社会は、旧石器時代の岩宿遺跡・野尻湖遺跡、縄文時代の三内丸山遺跡・大森貝塚、弥生時代の吉野ヶ里遺跡・登呂遺跡というように、各時代を代表する遺跡を2つずつセットで覚えることが基本になります。その上で、身分差のなかった縄文時代から、稲作の広まりによって貧富の差や争いが生まれ、最終的に邪馬台国という国家的なまとまりに至る弥生時代への変化を、一本の流れとして理解しておきましょう。受験における優先順位は弥生時代が最も高く、縄文時代、旧石器時代の順になります。

📺 動画インデックス:解説へ直行

以下の「▶ 再生開始」ボタンをクリックすると、社会の解説が始まる秒数から直接再生されます。お子様の復習や、家庭学習での親御様の確認にぜひご活用ください。

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第1回 旧石器時代・縄文時代・弥生時代 ▶ 再生開始 (24:52〜)

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