2026年9月2日
予習シリーズ社会5年下の進め方【四谷大塚の予習シリーズ5下第14回 明治時代(1)】
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目次
1. はじめに:この記事を読んで得られるメリットと実戦力
予習シリーズ5年下第14回のテーマは「明治時代(1)」です。覚えるべき項目が多く難所とされる単元ですが、大きく分けると、明治維新にともなうさまざまな改革(政治・生活の変化)と、その後に高まっていく自由民権運動という2つのまとまりで捉えると整理しやすくなります。まずは「明治維新」(政治面の変化)と「文明開化」(生活面の変化)という似た用語の違いを確認しておきましょう。
【本記事を読むメリット】
この記事を読むことで、1868年から1873年までの改革を年代順の1本の線としてつなげて理解できるようになります。また、征韓論から西南戦争・自由民権運動へとつながる流れも、人物の動きに沿って具体的に押さえられます。
2. 明治維新と文明開化:1868〜1873年を年表で押さえる
1868年:五箇条の御誓文と五榜の掲示
1868年、天皇が神に誓うという形で、新しい政治の方針を示した五箇条の御誓文が出されました。内容としては、みんなで話し合って政治を進め、新しい知識を取り入れて天皇中心の国をつくる、というものです。同時に、民衆に対しては、キリスト教を禁じることや一揆を起こすことを禁じるなど、江戸時代とあまり変わらない内容の五榜の掲示が出されています。
1869年版籍奉還・1871年廃藩置県
1869年、それまで大名が支配していた土地(版)と人民(籍)を天皇に返す版籍奉還が行われました。日本をひとつの中央集権国家にまとめるためには、まず土地と人民を天皇のもとに集める必要があったためです。ただし、この段階では元の大名がそのまま知藩事という形で土地に残っていたため、1871年、藩を廃止して県を置く廃藩置県が行われ、元の大名は東京に移されて華族という身分になり、代わりに政府から役人が各県に派遣されるようになりました。
1872年:鉄道・学制・太陽暦・富岡製糸場
1872年には、新橋と横浜の間に鉄道が開通し、6歳以上の男女に小学校教育を受けさせる学制が定められ、太陽暦が採用され、殖産興業(産業を興して生産を増やす)というスローガンのもと、官営工場である富岡製糸場がつくられました。富岡製糸場ではフランスの技術が取り入れられ、士族の娘たちが工女として働き、日本の生糸を世界一の水準に引き上げたことでも知られています。
💰 1873年:富国強兵を支える地租改正と徴兵令
1873年には、富国強兵(国を豊かにし、軍隊を強くする)というスローガンのもと、2つの重要な改革が行われました。地租改正では、土地の所有者に地券を発行し、地価の3%を現金で納めさせる方式に変更しました。徴兵令では、満20歳以上の男子(ただし長男や一定の条件に該当する人は免除)を対象に、兵士として集めるしくみが整えられました。どちらも、地租改正反対一揆など農民の反発を招いたことも押さえておきましょう。
文明開化:生活の変化と近代教育
文明開化では、ガス灯や馬車、洋服、レンガ造りの建物、ざんぎり頭、牛肉食といった生活の変化とあわせて、1871年に前島密によって郵便制度が整えられたことが重要です。教育の面では、学制による小学校教育に加えて、福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の東京専門学校(現在の早稲田大学)、津田梅子の女子英学塾(現在の津田塾大学)といった私立学校も次々に設立されました。また、モース(大森貝塚を発見したアメリカ人)、クラーク(札幌農学校)、ベルツ(東京大学医学部)といったお雇い外国人が、日本の近代化に大きく貢献しています。
3. 自由民権運動と大日本帝国憲法
征韓論から西南戦争・自由民権運動へ
明治維新によってさまざまな変化が起こる中、特に士族(元武士)の間には不満が高まっていました。1873年、朝鮮に対して武力を用いてでも開国させようとする征韓論が主張されましたが、欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らがこれに反対し、征韓論は退けられます。これを受けて、征韓論を主張していた西郷隆盛と板垣退助はそれぞれ政府を去りました。
⚔️ 西郷隆盛は武力、板垣退助は言論で不満をぶつける
鹿児島に戻った西郷隆盛は、1877年、西南戦争を起こしますが、政府軍に鎮圧されました。一方、高知に戻った板垣退助は、武力ではなく言論で政府に訴える道を選び、1874年、民撰議院設立の建白書を政府に提出します。これは、国民が選んだ議員による国会を開くべきだという主張で、これが自由民権運動の始まりとなりました。
自由民権運動は全国に広がり、政府は当初これを厳しく取り締まりましたが、1881年、10年後に国会を開設することを約束します。これを受けて、板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成しました。1884年には、自由党の影響を受けた埼玉県秩父地方の農民らが、借金の減免などを求めて蜂起する秩父事件が起こっています。
大日本帝国憲法の発布と帝国議会
国会を開くには、法律の基準となる憲法が必要になるため、1882年、伊藤博文が君主権の強いドイツの憲法を学ぶためドイツに留学しました。帰国後、三権分立(立法権・行政権・司法権)のうち行政権を担う内閣制度が1885年につくられ、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任します。そして1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法では、国のあり方を最終的に決める主権が天皇にあるとされ、基本的人権も法律の範囲内でのみ認められるものでした。
🏛️ 帝国議会は衆議院と貴族院の2つから成る
1890年には第1回衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が開かれました。帝国議会は、国民の選挙で選ばれる衆議院と、皇族・華族・天皇が任命した人からなる貴族院の2つから構成されます。ただし、このときの選挙権は直接国税を15円以上納める25歳以上の男子に限られていました。
4. まとめ・解説動画(タイムスタンプ付き)
明治時代(1)は、1868年の五箇条の御誓文から1873年の地租改正・徴兵令までを年代順に整理する「明治維新の改革」と、征韓論をきっかけに西郷隆盛の西南戦争、板垣退助の自由民権運動へとつながっていく「自由民権運動」という2つの大きな流れで捉えると、全体像が理解しやすくなります。大日本帝国憲法については、「天皇主権」であったという日本国憲法との違いを、あわせて押さえておきましょう。
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| 学習回 | 主なテーマ | 解説を再生する |
|---|---|---|
| 第14回 | 明治時代(1) | ▶ 再生開始 (25:47〜) |
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