2026年7月26日
【予習シリーズ5年下 第4回】社会攻略ガイド
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目次
1. はじめに:この記事を読んで得られるメリットと実戦力
第4回の社会は平安時代です。この時代は非常に長く、内容も盛りだくさんのため、まずは大きな政治的まとまりで整理することが何より重要です。「桓武天皇の政治→摂関政治→院政→平清盛の政治」という4つのブロックに分けて整理し、その間に平安仏教や遣唐使の廃止、武士の反乱といった周辺知識を挿入していくというやり方が、最も効率よく覚えられる方法です。
【本記事を読むメリット】
この記事を読み込んでいただくことで、平安時代という長大な時代を4つの政治的なブロックに整理して捉える視点が身につきます。また、藤原氏がなぜあれほどの栄華を極めることができたのか、その理由(藤原鎌足を祖先に持つこと、天皇の外戚として権力を得たこと、荘園の寄進を受けて経済基盤が盤石だったこと)を、単なる暗記ではなく、記述問題にも対応できる形で説明できるようになります。文化に関しても、国風文化を中心に数多くの用語を扱いますが、これらを効率よく記憶するための語呂合わせも紹介します。
2. 桓武天皇の政治:平安京遷都と東北平定
平安時代の最初のブロックは桓武天皇の政治です。桓武天皇が行ったことは大きく3つあります。
平安京への引っ越しと、その裏にあった事件
1つ目は都の引っ越しです。桓武天皇は、奈良時代の後半に仏教を優遇しすぎたことで僧が政治に口を出すようになったことを嫌い、奈良を離れることを決めます。最初に784年、京都の「長岡京」に引っ越しましたが、建設の途中で、建設を指揮していた人物が殺害される事件が起こり、その後も伝染病の流行や身内の不幸が相次いだため、長岡京は縁起が悪いということになり、794年に「平安京」へと都を移しました。平安京は、藤原京→平城京→長岡京→平安京という順番で、奈良から京都へ、南から北へと移っていったという点も押さえておきましょう。平安京は左京・右京から成る真四角の形をしており、外京が出っ張っている平城京とは形が異なる点も、識別問題として出題されることがあります。
国司の不正の取り締まりと、東北地方の平定
2つ目は律令政治の立て直しで、具体的には国司の不正を取り締まったことです。当時の国司は、都に納めるべき税の一部をちょろまかすといった脱税を行っていたため、桓武天皇はこれを見過ごさず、不正を暴くための役職を設けました。
3つ目は、東北地方の平定です。当時の東北地方には、大和政権の支配に従わない「蝦夷」と呼ばれる人々がいました。桓武天皇はこの征討のために、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷の指導者であったアテルイを降伏させることに成功しています。
あわせて、平安仏教についても桓武天皇の時代に押さえておくべきポイントです。奈良のお坊さんの政治介入を嫌った桓武天皇は、平安京にふさわしい新しい仏教を求め、最澄を唐に留学させました。この時、最澄に同行していたのが空海です。2人はそれぞれ帰国後に宗派を開き、最澄は天台宗(比叡山延暦寺)、空海は真言宗(高野山金剛峯寺)を開いています。
3. 藤原氏の摂関政治:栄華を極めた3つの理由
2つ目のブロックが、藤原氏による摂関政治です。藤原氏は元々、中臣鎌足を祖先に持ち、大宝律令を作った藤原不比等や、聖武天皇の后であった光明皇后もこの一族に連なる、非常に有力な貴族でした。ただし、有力な貴族であっても皇族ではないため、天皇にはなれず、政治を最終的に動かすことはできませんでした。そこで藤原氏が考え出したのが「摂関政治」という仕組みです。
摂政・関白の仕組みと、菅原道真の左遷
摂政は天皇が幼い時に代わりに政治を行う役職、関白は天皇が成人した後も代わりに責任を持って政治を行う役職です。藤原氏はこの役職に就くために、自分の娘を天皇の后にし、生まれた孫を天皇に立てるという方法を取りました。孫が天皇になれば、幼いうちは自分が摂政として、成長した後も関白として政治を行うことができるという仕組みです。
藤原氏はこの権力を維持するために、優秀なライバルを排除することもありました。その代表例が菅原道真です。藤原氏の陰謀によって道真は大宰府に左遷されてしまい、その地で亡くなります。その後、都では伝染病の流行や落雷などの異常事態が相次ぎ、これは道真の祟りではないかと恐れられ、道真を祀る神社(天満宮)が建てられました。今では学問の神様として知られています。
「望月の歌」と、藤原氏繁栄の3つの理由
💡 記述で問われる「藤原氏はなぜ栄華を極められたのか」
摂関政治は、藤原道長・頼通親子の時代に最盛期を迎えます。道長が詠んだとされる「この世をば わが世とぞ思う 望月の…」という歌は、満月に欠けたところがないように、この世のすべてが自分のものだという、大変自信に満ちた内容として知られています。息子の頼通は、当時流行していた浄土信仰の流れに乗って、平等院鳳凰堂を建てたことで有名です。
藤原氏がなぜこれほどまでの栄華を極められたのかという理由は、記述問題としても問われるポイントであるため、次の3点を押さえておきましょう。①先祖が中臣鎌足であったこと、②天皇の外戚(母方の親戚)として権力を得たこと、③荘園の寄進を受けて経済基盤が盤石だったことです。特に③については、当時の国司が正当な税の取り立てをちょろまかしたいと考え、自分の荘園を藤原氏に寄進することで、税を免除される「不輸の権」や、国司の立ち入りを拒否できる「不入の権」を得るという仕組みが背景にありました。
なお、摂関政治が確立していく過程で、地方では武士という存在が発生してきます。武士がいつどのように発生したかは正確にはわかっていませんが、豪族が地方の治安維持のために雇った人々が集団化していったと考えられています。この時代には平将門の乱・藤原純友の乱といった反乱も起こっており、こうした武士の力を借りて反乱を鎮めるという流れが、後の武士の台頭につながっていきます。東北地方では、前九年の役・後三年の役という争いを源義家が鎮め、その後は奥州藤原氏が平泉を拠点として東北地方を治めました(中尊寺金色堂が代表的な建物です)。
4. 院政から平清盛の政治、そして国風文化へ
藤原氏の摂関政治には弱点がありました。自分の娘を天皇の后にし、孫を天皇にできなければ、この仕組みは成り立たないという点です。藤原氏に都合の良い後継者を確保できなかったことから、藤原氏とは血縁関係の薄い後三条天皇が即位します。この状況を受けて、天皇が自らの地位を譲って上皇となり、上皇の立場から政治をコントロールするという仕組みが生まれました。これが3つ目のブロックである「院政」で、実際に本格的に院政を始めたのは白河天皇(白河上皇)です。院政の時代には、僧侶による武力集団である「僧兵」が力を持つようになったことも押さえておきましょう。
平清盛の政治と日宋貿易
院政の時代、天皇と上皇の対立や、貴族同士の対立に武士の力が利用されるようになっていきます。1156年の保元の乱、その3年後の1159年の平治の乱を経て、これらの戦いに勝利した平清盛が政治の実権を握るようになりました。平清盛は武士として初めて太政大臣という地位に就き、政治を主導するようになります。
平清盛の政治で重要なのが日宋貿易です。大輪田泊(現在の神戸港)を整備して貿易の拠点とし、海の安全を祈願して厳島神社を整備したことでも知られています。日宋貿易の輸出品は刀剣や工芸品、輸入品は銅銭で、この銅銭の輸入によって日本国内で貨幣経済が発展していくことになります。
国風文化:ひらがなと浄土教
この時代の文化として重要なのが国風文化です。国風文化は、遣唐使が廃止されたことによって発展した、日本独自の文化とまとめることができます。かな文字が発明され、源氏物語や枕草子、古今和歌集といった文学作品が多く生まれました。項目数が非常に多いため、語呂合わせなどを使って効率よく覚えることをおすすめします。
文化の中でも特に重要なのが「浄土教」です。仏様にすがって極楽浄土に行こうという考え方で、当時流行した「末法思想」(お釈迦様の教えが通じなくなり、修行しても意味がなくなるとされる時代が来るという思想)を背景に、阿弥陀仏に救済を求める信仰が広まりました。この考え方に基づいて建てられたのが、藤原頼通の平等院鳳凰堂や、奥州藤原氏の中尊寺金色堂です。
5. まとめ・解説動画(タイムスタンプ付き)
第4回の社会は、平安時代という長大な時代を「桓武天皇の政治→摂関政治→院政→平清盛の政治」という4つのブロックに整理し、その間に平安仏教や武士の発生といった周辺知識を挿入していくという学習法が最も効率的です。藤原氏の栄華の理由(祖先・外戚・荘園の寄進)は記述問題対策として必ず押さえ、国風文化の多数の項目は語呂合わせを活用して確実に覚えていきましょう。
📺 動画インデックス:解説へ直行
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| 学習回 | 主なテーマ | 解説を再生する |
|---|---|---|
| 第4回 | 平安時代 | ▶ 再生開始 (30:13〜) |
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