【予習シリーズ5年下 第3回】社会攻略ガイド

2026年7月26日

【予習シリーズ5年下 第3回】社会「奈良時代」攻略ガイド【進塾】

【予習シリーズ5年下 第3回】社会攻略ガイド

〜律令制度の仕組みと、貧しさゆえに崩れていく公地公民〜

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1. はじめに:この記事を読んで得られるメリットと実戦力

第3回の社会は奈良時代です。この単元の最大の山は「律令制度」で、大宝律令自体は飛鳥時代に成立していますが、それを基にした律令政治が本格化するのが奈良時代です。律令制度はどこまで細かく覚えるかが悩みどころですが、二官八省のすべてを細かく覚える必要はなく、その一方で税制や労役についてはしっかり覚えておいた方が良いという、学習の濃淡が重要な単元です。

【本記事を読むメリット】
この記事を読み込んでいただくことで、戸籍に基づく口分田の支給から、租・調・庸・雑徭・防人といった重い税負担までの一連の仕組みを、単なる暗記ではなく「なぜ人々が逃亡してしまうのか」という因果関係とセットで理解できます。また、「平城京遷都→三世一身の法→墾田永年私財法→聖武天皇の政治」という政治史の流れを一本につなげて捉えることで、公地公民の原則がなぜ崩壊していったのかという理由まで説明できるようになります。あわせて、遣唐使や天平文化についても、なぜその人物・その建物が重要なのかという背景を押さえていきます。

2. 律令制度の仕組みと、重い税に苦しむ人々

律令政治は、701年に大宝律令が完成したことから始まります。この大宝律令ができたのは飛鳥時代であるという点は、試験で引っかけとして問われることがあるため注意しましょう。「律」は刑罰の決まり、「令」は政治の決まりを表しています。

二官八省と、地方の国司・郡司・里長

律令の仕組みとして、中央には二官八省という組織があります。神祇官と太政官の2つの官があり、太政官の下には太政大臣・左大臣・右大臣が置かれ、さらにその下に民部省などの八省が置かれています。八省のすべてを細かく覚える必要はありませんが、太政官・太政大臣という言葉は今後の用語としても登場するため、この2つは押さえておくとよいでしょう。
地方の仕組みとしては、国・郡・里に分けられ、それぞれ国司・郡司・里長という役職が置かれました。ここで重要なのは、国司は都から派遣される役人であるのに対し、郡司はその地方の力のある豪族が任命されるという違いです。そして、住民から実際に税を取り立てる役割を担っていたのは里長でした。国司ではなく里長が税を取り立て、それを国司に納めるという流れになっている点は意外と見落としやすいポイントです。地方の仕組みとしてはこの他に、九州に置かれた大宰府があり、これは白村江の戦いの後に九州の防衛拠点として作られた役所で、外交の窓口としての役割も担っていました。

重い税負担が逃亡者を生んだ「租・調・庸・雑徭・防人」

⚠️ 男子に生まれると、税負担が一気に重くなる

税の仕組みは、まず戸籍によって人民を管理するところから始まります。6歳以上の男女を発見すると、その人に「口分田」という土地が割り当てられ、そこから収穫した稲の3%を納める「租」が課されます。ここまでは男女とも同じ負担です。
しかし、男子として生まれると、そこにさらに重い負担が追加されます。特産物を納める「調」、布や労働の代わりとして都に納める「庸」、1年に60日間の強制労働である「雑徭」、そして3年間九州の防衛にあたる「防人」まで課されるのです。これだけの重い負担があったため、戸籍を偽って女性と届け出たり、口分田を捨てて逃亡してしまう者が増えていきました。逃亡者が増えれば社会は不安定になっていき、これが律令政治の崩壊へとつながっていく大きな要因になります。

3. 平城京遷都から律令政治の崩壊まで

710年、元明天皇の時に、都は藤原京から平城京へと移されました。平城京は唐の都である長安をモデルに作られており、左京・右京に加えて外京と呼ばれる出っ張りがあるのが特徴です(後の平安京は真四角の形をしています)。この頃、日本最古級の貨幣として「和同開珎」が流通するようになりました。

三世一身の法から墾田永年私財法へ

重い税負担によって人々が口分田を捨てて逃亡するようになると、国としては税収を確保するために対策を考えなければなりません。そこで723年に出されたのが「三世一身の法」です。新しく用水路を開いて土地を開墾すれば、3代の間はその土地を自分のものにしてよいという決まりでしたが、当然ながら3代を過ぎれば土地は国に返さなければならないため、わざわざそんなことをする者はおらず、この政策は失敗に終わりました。
その後、聖武天皇が743年に出したのが「墾田永年私財法」です。今度は開墾した土地を永久に自分のものにしてよいという決まりに変わりました。これによって、力のある貴族などが農民を雇って開墾を進め、私有地(荘園)を増やしていくようになります。この結果、公地公民の原則が崩壊し、天皇以外の貴族が力を持つようになって、政治の不安定化にもつながっていきました。

4. 聖武天皇の政治と、遣唐使・天平文化

聖武天皇は、運の悪い天皇でもありました。出かけた直後に地域で大きな地震が起きたり、伝染病が流行したり、貴族による反乱が多発したりと、悩みの多い治世でした。そうした社会不安を鎮めようと、聖武天皇は仏教に深く頼るようになります。741年に国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、743年には東大寺に大仏を建てるよう命じました。この大仏建立には、行基という僧が協力しています。「なぜ大仏を作れと命令したのか」という記述問題では、世の中に広がっていた不安を仏教の力で鎮め、国を治めようとしたという趣旨で答えられるようにしておきましょう。

聖武天皇の妻である光明皇后も重要な人物です。中臣鎌足の孫にあたり、皇族以外の身分で皇后になった初めての人物とされています。仏教への信仰が篤く、施薬院を設けて病人に薬を与えたり、悲田院を設けて孤児や身寄りのない人々を救ったりと、慈善事業に力を入れたことで知られています。

遣唐使:危険な航路を渡った人々

奈良時代は遣唐使による外交が盛んな時代でもありました。第1回の遣唐使として派遣されたのが犬上御田鍬です。この後も、万葉集に「貧窮問答歌」を残した山上憶良や、後の時代の最澄・空海なども遣唐使として派遣されています。白村江の戦いで新羅との関係が悪化した後は、朝鮮半島沿いの安全なルートが使えなくなり、危険な航路(難路)を渡らなければならなくなりました。
遣唐使に関連して重要な人物が阿倍仲麻呂です。唐に渡って役人の試験(科挙)に合格するほど優秀だったため、唐の皇帝に気に入られて帰国を許されず、結局唐で生涯を終えることになりました。また、唐から日本に来た僧である鑑真も重要な人物です。日本への渡航を何度も試みますが失敗を繰り返し、失明した後の6回目でようやく成功し、平城京に唐招提寺を建てました。

天平文化:正倉院と2つの歴史書

天平文化は、唐の影響を受けた仏教中心の貴族文化とまとめられます。代表的な建物が正倉院で、聖武天皇のコレクションが収められている校倉造りの建物です。書物としては、歴史書である古事記と日本書紀があり、古事記は口伝で伝えられてきたもの、日本書紀は後から編集されたものという違いがあります。そのほか、地方の特産物などを記した地理書である「風土記」、そして和歌集である「万葉集」も、天平文化を代表する書物として重要です。

5. まとめ・解説動画(タイムスタンプ付き)

第3回の社会は、律令制度の仕組みと、それが重い税負担によってどのように崩れていったのかという因果関係を理解することが最大のポイントです。「平城京遷都→三世一身の法→墾田永年私財法→聖武天皇の政治」という政治史の流れをひとつなぎで覚え、税制(租・調・庸・雑徭・防人)や遣唐使の人物名(犬上御田鍬、阿倍仲麻呂、鑑真)、天平文化の書物(古事記・日本書紀・風土記・万葉集)といった周辺知識を肉付けしていきましょう。

📺 動画インデックス:解説へ直行

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第3回 奈良時代 ▶ 再生開始 (26:47〜)

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